無駄なこと

つれづれ日記

この間、わたしの両親と叔父の趣味について話題になった。
叔父はいわゆるコレクター気質で、部屋に月刊誌付録のミニカーをキレイに並べたり、映画をダビングしたDVDにキャストや公開日などまで記載して保管したりするのが趣味だそうだ。

逆に、わたしの父親は、「無駄」が嫌いな性格で、70代前半で終活も始めているほど。物だけでなく、銀行口座やクレジットカードなども一つにまとめだす徹底ぶりだ。この間は、墓じまいも検討していた。

そんな父から見たら、叔父の趣味は理解ができないらしい。叔父も同じく、70代。
叔父に対して、「そろそろ終活を始めたらいいのに」や「あれじゃ、残される奥さんが大変な思いをする」などと言っていた。

母はどちらかというと物を捨てられない、思い出を残しておきたいというタイプだと思っていたが、父の話を聞きながら、うんうんとうなづき、「よく分からないよね~」などと相槌を打っていた。

そんな両親の話を聞いていて、わたしは、二人のことを「残念な人たちだな」と感じてしまった。

わたしは、叔父の生き方の方が好きなのだ。

叔父は大病を患っており、大きな手術をしたり副作用の強い薬を飲んだりしていると聞いている。しかし、毎日の生活をずっと悲観して生きているわけではない。

調子がいいときは奥さんと近くの温泉へ行ったり、美味しいものを食べにわざわざ出かけたり。
庭に咲く植物の写真を撮っては川柳と一緒に、親戚共通LINEに投稿したり。

わたしには、叔父が楽しく生きようと努力しているように見える。

対して、わたしの両親は、大きな病気もなく、足腰も元気なのに、出かけるのが億劫だと自宅に引きこもり、毎日TVを見て暮らしている。趣味と呼べるものもなく、友人も少ない。

暇を持て余すように、他人のことばかり話題にして、心配してみたりバカにしてみたり。

娘としては、毎日の生活に楽しみを見つけようとする叔父のような生活を送ってほしいと思うのだ。

思えば、昔からそうだった。両親は、子どものわたしたちにも、失敗しないように、無駄がないようにと育ててきた。たしかに、親心としては、子どもが悲しんだりケガしたりしないように、正しい道を示したかったのかもしれない。

でも、そのおかげで、わたしは多くの学ぶ機会を奪われたように思う。
学生時代の部活・車の運転・将来の夢・・・。

大人になり、主人やその家族と出会い、ますます世の中にはいろんな家族がいるのだと実感した。
主人の両親は、どちらかというと放任主義で、子どもが提案することに否定をしない。

たとえば、義理兄が大学生の時、英語がまったく話せないのに、留学したいと言い出した。わたしの両親だったら、「なに、馬鹿なことを言っているんだ」と一蹴されて終了だ。
でも、義理の母は、「行く前に、基本的な英語だけでもしゃべれた方がいいでしょ」と初心者英語教室を見つけてきたそうだ。

ここまでの話だけ聞くと、わたしが両親のことが嫌いそうに見えるが、そうではない。いや、大人になり、いろんな人を見てきて、親だからといって完璧ではないし正しいわけではないと理解したというべきか。両親のことは好きだし感謝もしているが、すべての価値観を受け入れる必要はない。

わたしはもう大人だ。自分の価値観を自分で選択する自由と責任がある。

わたしは、無駄と思われても、自分の好きなものや好きなことをして生きていきたい。
両親から見たら、「無駄なこと」だらけだろう。でも、関係ない。

自分らしく生きるためには、人に理解されなくても続ける覚悟が必要なのだ。

コメント